岸田劉生の鵠沼時代と、
そのモデル
有 田 裕 一
(昭35 商)
湘南というイメージは、 今や全国的に通用する地域名であり、 その中でも住みやすく文化的な地名の代表であろう。 その中心である藤沢が文化的都市である所以は、 現在も勿論そうであるが、 温暖な気候とあいまって、 明治、 大正、 昭和にわたって文化人が住み、 その雰囲気をかもし出したからに他ならない。 学者、 文人、 芸能人、 実業家、 政治家、 範囲を広げれば枚挙にいとまがないが、 今回私が住む鵠沼の中から、 画家岸田劉生をとりあげてみたい。
岸田劉生は、 明治二十四年東京で東京日日新聞の主宰をしていた父岸田吟秀の四男として生まれた。 大正五年東京代々木に住んでいたが劉生は肺の病気と診断され、 府下駒沢村に移り、 翌大正六年 (一九一七年) 二月に鵠沼へ転居した。 療養しながら制作活動を続けるには、 気候の良い鵠沼は最適の地であったようである。
彼の有名な 「麗子像」 は大正七年 (一九一八年) から、 大正十二年までの間、 麗子像だけでも三十点もあり、 劉生というと多くの人が 「麗子像」 を思い浮かべる程になっている。
その他岸田家へ来ていたお手伝いの娘を描いた 「村娘於松」 の像や 「鵠沼風景」 など多数の作品がこの鵠沼で制作されている。 三十八歳で生涯を閉じた劉生にとって、 この鵠沼時代 (大正六年〜大正十二年) は最も充実した時代である。
劉生は最初鵠沼松が岡にある佐藤別荘 (松が岡三-二三あたり 佐藤長四郎氏所有) に住んだ。 この家は劉生が住む前は作家武者小路実篤が住み、 ここで 「その妹」 を執筆している。 武者小路との仲はこの後も長く続き、 武者小路が志賀直哉らと、 鵠沼の旅館東屋で 「白樺」 を立ち上げ、 その雑誌白樺の装丁を受け持つなど白樺派との交流が続いた。
しかしこの最初の別荘も、 画家にとって窓からの光線の具合が良くないと、 大正六年六月に、 近くの松本別荘 (松本陽松園) へと移るのである。 この地は鵠沼松が岡四-七-一〇である。 劉生の住んだ区画には、 今四軒の住宅が建っていて昔を偲ぶよすがもないが、 ちょうど一九一九年に劉生が描いた 「朝の道のスケッチ」 が松本別荘内の小径の様子を表していると思われるので、 現在の同位置の写真と比べて見るのも面白い(写真参照)。

「朝の道スケッチ」 毎日新聞社版図録より
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同じ場所 2005年現在
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絵の中の正面がT字路で左へ行くと湘南学園、 右へ行くと鵠沼海岸駅である。 正面左に見える大きな門柱は、 娘麗子の著書 「父 岸田劉生」 にも思い出として表わされている。
さて劉生は鵠沼の生活ですっかり健康を取り戻し、 制作活動も盛んになったが、 大正十二年関東大震災で家が潰れ、 九月十七日京都へと向かった。
この間、 七年であったが多くの作品を残し、 又劉生のもとへは多くの画家達が訪れ、 庭に造ってあった土俵で、 劉生の好きな相撲に興じたりしていた。
何年か前 「麗子像」 の一つが売りに出され、 その価格は確か三億円だったと思う。 劉生と言えば 「麗子像」。 教科書にも出て来る位だから無理もないが、 この麗子像と共に忘れてはならないのは 「村娘於松」 の像である。 これも複数が残されていて、 「麗子像」 と同じ筆のタッチで、 同じように愛情を込めて描かれている。
このモデルは葉山マツさんと言い、 明治四十四年生まれであるから、 麗子より二歳年上であった。 このモデルになったおマツは、 劉生が佐藤別荘に住み始めた頃、 その近所の住人であった漁師の妻が岸田家のお手伝いに訪れていた。 その時母親について行ったマツは麗子と友達になり、 劉生はこのマツをモデルとして見出し、 二人を巧みに競い合わせるように描いたのである。 モデルをするのは午後からの同じ時間で、 劉生の鵠沼での人物画のほとんどがそうであるように、 向かって少し右を向いている。 これは劉生のアトリエの北東の窓から入る光で描いていたからであり、 マツさんも、 「高砂」 (石上の方にあった鵠沼の旧地名) の方を見るように言われたと話している。
鵠沼小学校へ通っていたが、 担任の先生からも理解され、 お弁当を食べて一時間もすると 「葉山、 帰ってもいいよ」 と言われ喜んで早退することもあったと言う。
「於松の像」 は椿の花のかんざしの絵が何枚かあるが、 ご本人は、 小さな花がいっぱい付いたかんざしの絵が一番好きだと言う。
又モデルになった頃、 おマツさんはつわぶきの花を持った絵をもらったが、 いつの間にか失ってしまったとのことである。
一九六一年 (昭和三十六年) 「村娘の像」 が週刊朝日の表紙になり、 これを見たマツの娘さんが 「これお母さんではないか」 と直感したことから、 麗子とおマツさんは、 四十年ぶりに再会し、 松本別荘の周辺を一緒に歩いたという記録がある。 その時麗子は四十七歳、 おマツさん四十九歳だった。
おマツさんは現在九十五歳、 記憶もしっかりしておられる。 私共にも 「麗子像」 に描かれている 「毛糸のショール」 が、 実はかつての佐藤別荘の前にあった益田家 (三井物産社長) からおマツの家でもらったものだが、 劉生が気に入り麗子の肩に掛けさせ度々絵の中に登場することになった話など、 思い出話を沢山語ってくれた。
おマツさんは震災少し前鵠沼から藤沢へ転居したが、 今でも健在である。 歴史をつなぐ人が今もお元気でいられることは、 我々藤沢市民にとっても嬉しいことではないか。
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