支部長の窓
明大全国大会交流会
湘南藤沢地区大学交流親睦会
 
  


    
    
  老蒙修学旅行
    みちのくの旅六人連れ

                     金 子 勇 二
                       (昭37 法)

 長梅雨もまだ明け切れぬ、はつきりしない空模様の続く幾日かであつた。折角の旅行ゆゑ天候だけが気に懸かつたが、その心配も杞憂と消え、出発の当日から帰るまで、好天気に恵まれた旅行であつた。
 一行六名、菅沼良策氏(昭30商)、永友亨氏(昭37商)、篠崎行伸氏(昭38商)、三田勉氏(昭42商)、田村守孝氏(昭42工)と筆者の金子勇二は田村氏の運転するハイブリッドのワンボックスカーで朝4時半に藤沢を出発した。平成19年7月24日のことである。
  いつの頃からか、東北地方を旅行しやうかといふ話が出た。即座に行かうと言ふ者六人が集まる。ならば、余り行つたことのない下北半島の一周を中心にしてはと言ふことになつた。菅沼氏と金子が行程の原案を作り、全員の意見を聞いて纏めた。かくして老蒙修学旅行『みちのくの旅』となつた次第である。

  青森県内の訪問先と宿泊先


1.第一日目 山形県鶴岡市湯野濱へ

 岩手山             帰途 永友亨氏撮影

  自動車は東北自動車道を北上し山形道へ入る。
  三田氏が「東北の山」の一覧表を皆んなに配る。深田久弥の「日本百名山」と田中澄江の「花の百名山」からの抜粋であるとか。
  東北の山は多くが独立峰で、また植物も稀な特徴を持つて分布してゐる。道々車窓から眺めて新たな発見の旅としたいと言ふのが三田氏の言葉であつた。永友氏、篠崎氏も山歩きはベテランである。山についての含蓄も深く、詳しい。然し、三田氏のプリントのお陰で地図と見比べながら、「あれが那須岳」「あれが安達太良山だ」と紹介される。名前を知るだけで車窓の風景が親しみ深く、強く印象に残る。行く先々で三田氏の作つたプリントに感謝した。

 最初の予定は「最上川の舟下り」だ。皆んなで「最上川舟唄」を覚えることにした。持参したCDを聴きながら何遍も繰り返し唄つてみるが、仲々覚えられない。
     

  酒田さ行くさげ 達者(まめ)でろちゃ
  流行(はやり)風邪など ひがねよに
       
  五間二尺の ござ帆を揚げて
  下す酒田の 大港
       
  碁点(ごてん) 早瀬(はやぶさ) やれ三ケ瀬も
  達者(まめ)で行つたと 頼むぞえ
       
  別れつらさよ 山背の風だ
  おれを恨むな 風恨め
    

 舟唄と言ふからには、最上川を上下する舟行に従事する作業の労働歌であらう。然し、嫋々としたメロディは哀調を秘め、歌詞の思ひも素朴で分かり易い。日本人ならだれでもが胸のうちに持つてゐる旋律を奏でられるやうな気がする。日本の民謡の中でも名曲であると思ふ。ただ、覚えるのは難しく、覚え切れないうちに乗船場に着いてしまつた。

◇最上川舟下り
 国道47号線沿いの古口といふ処に「最上川芭蕉ライン舟下り」の乗船場はある。元戸澤藩の船番所のあつた処であるとか。

 古口 最上川舟下り芭蕉ライン乗船場 旧船番所門前にて
 左より 筆者 永友亨氏 篠崎行伸氏 菅沼良策氏 三田勉氏 田村守孝氏
     
  船頭さんの唄ふ『最上川舟唄』に乗つて 最上川舟下り

  最上川が往時、物産流通の要路であつたことは聞いてゐた。平安時代には既に中流から下流にかけて船が通ひ、江戸時代には上流の米澤盆地までも通じてゐたと言ふ。何百隻もの川船が往来し、最上川流域で収穫された米や紅花を酒田港まで運んで積出し、帰りには反物類や焼物など持ち帰る。それは単に物流だけでなく京、大阪の上方や江戸表の文化や言葉、生活習慣をも伝へてゐる。地元の人が「母なる河、最上川」と呼ぶのもあながち誇張ではない。

 航海舟の説明を受ける菅沼良策氏(左)と筆者

  乗船場の脇に、昔使はれてゐた航海舟が展示されてゐた。長さ12〜3米、幅2〜3米の底の浅い舟で、藁屋根を葺いた粗末な居室が作られてゐる。炊事用具などを持込んで4〜5人で乗組み、一度航海に出たら4〜50日は帰らなかつたとか。
酒田への下りは急流の川浪に乗つて行くが、上りは日本海からの西風を待つて、五間二尺の帆を掛けて上る。風が無ければ、沿岸の部落に風待ちの逗留をしなければならない。一航海が40日も50日も掛かる訳である。
  「こんな舟の中で何日も生活するのは随分大変だつたでせうね」
  傍らで眺めてゐた菅沼先輩に話し掛けると、黙つて頷いてゐた。
  それは、風の強さによつては舟も転覆するし、水底に潜む岩礁に舟の底を噛み破られる危険な航海でもあった。過酷で危険な仕事を支へる人がゐて、その時代の社会や生活が築かれてゐたのである。
   

  あの娘(へな)ゑねが 航海乗りなどせねがつたちやア
  エーエンヤエーエ エーエンヤエート
  ヨーイサノマカショ エーンヤコラマーカセー
     

 甘美で哀切を湛へたメロディには、それなりの思ひがこめられてゐるのを知つた。     

 舟下りの篠崎行伸氏(左)と三田勉氏

 到着した10時50分は舟の出る時刻であり、既に間に合はない。次の11時50分の舟にした。乗船の手続を済ませ、自動車は舟を降りる「最上川リバーポート」まで代行運転を依頼する。少し早めだが昼食にした。
  明るい陽光の下、涼風の心地よい穏やかな舟下りであつた。船頭さんの説明に耳を傾けながら両岸の景色を楽しむ。芭蕉の遺跡や、更に遡つて義経や弁慶の遺跡もあると言ふ。所縁のありさうな人をみんな持つて来るあたり、如何にも観光地らしいといふ気がしないでもない。12キロほどを1時間かけた舟下りであつた。

   
◇清河八郎記念館

 清河八郎肖像
  舟を降りて国道47号線を20分程走ると清川といふ集落に出る。幕末の志士清河八郎の生れた処である。その記念館に寄つてみた。
  清河八郎と言ふと新撰組のドラマには必ず出て来る人物だ。京都に居る将軍警護の為浪士組の集団を編成するが、一転して尊皇攘夷を唱へて孝明天皇から攘夷の詔勅を受け、江戸へ戻つて攘夷活動に取組む。その策士振りに違和感を感じる人は多いが、人と成りは誠実であり、大変な秀才であつて且つ勤勉な努力家であつた。惜しくも34歳で暗殺される。
 館内には遺品の数々が展示されてゐたが、「維新回転偉業之魁」と書かれた徳富蘇峰奉献の大額が目を引く。後に神と祀られ、清河神社が創建されたが、記念館はその神社の境内に在る。
 徳富蘇峰書 『維新回天偉業之魁』の額
 私は清河八郎のことをよく知るものではないが、その著書の「西遊草」を岩波文庫で読んだことがある。二十六歳の時、母と伯母と下僕を伴ひ、半年間をかけて善光寺から伊勢、京都、奈良、大阪、四国の金毘羅、岩国の錦帯橋、天の橋立等を見物し、江戸を廻つて清川に戻る旅行記である。当時の旅行は勿論現代とは異なる。恐らく苦難の連続とも言ふべきものであつたらう。母に仕へての細やかな心遣ひに感動したことを憶えてゐる。その「西遊草」の原本も展示されてゐた。
 現代も生きる清河八郎
  清河八郎の家系図を見てゐた三田氏が面白いことを発見した。八郎の生家斉藤家は妹の辰が養子を迎へて嗣ぐが、その孫の中で、四女栄子は小説家柴田錬三郎の妻となり、六男斉藤磯雄は明治大学の教授(仏文学)になつてゐる。歴史上の人物が思はぬところで現代と繋がつてゐるのである。
  「明治大学の教授とは奇縁ですね」
  三田氏は笑つた。
   
 清河八郎で特に興味深く思はれるのは、その妻蓮女との交情である。蓮女はもと花柳界の女性であつたが、八郎と相知ることとなり、その妻となる。清河八郎が無礼人斬殺の件から幕府追討の身になると幕吏に捕へられ、伝馬町の牢獄に入れられる。
 妻の投獄を聞いた時に八郎の詠んだ詩があつた。
   
  我レニ巾櫛(きんしつ)ノ妾アリ 我有巾櫛妾  
  毎(つね)ニ我ガ不平ヲ慰ム 毎慰我不平  
  十八我ガ獲(う)ル所 十八我所獲  
  七年使命ヲ供ニス 七年供使命  
  姿態心トモニ艶(うるわ)シク 姿態心共艶  
  廉直ニシテ至誠ヲミル 廉直見至誠  
  未ダ他ノ謗議(ぼうぎ)ヲ聞カズ 未聞他謗議  
  只婦人ノ貞ヲ期ス 只期婦人貞  
  我ガ性ハ急カツ暴 我性急且暴  
  ヤヤモスレバ奮怒ノ声ヲナス 動作奮怒声  
  彼必ずズ我ガ意ヲ忖(はか)リ 彼必忖我意  
  顔ヲ和ラゲテソノ情ヲ解ク 和顔解其情  
  我レ嘗(かつ)テ酒気ヲ使フ 我嘗使酒気  
  彼必ズ酔程ヲ節ス 彼必節酔程  
  施与吝(を)シム所ナシ 施与無所吝  
  賓客日ニ来タリ盈(み)ツ 賓客日来盈  
  噫(あゝ)今已ニ座スル所 噫今已所座  
  再会衡(はか)ル可ラズ 再会不可衡  
  必ズ糟糠ノ節を記シ 必記糟糠節  
  我ガ成ス所アルヲ俟(ま)テ 俟我有所成  
     
  残念ながら蓮女は獄死する。仙台にゐた八郎はその死を聞いて悼亡歌を詠んでゐる。「為清林院貞栄香花信女」と題して

    さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらを)の
        袖ににほひをとどめざらめや
   
     艶女(たおやめ)がゆくゑもしらぬ旅なれど
        たのむかひありますらをの連

 二首目の歌は、自分も長い命は期待できず、いづれ一緒に黄泉の国を旅行くことにならう、その時を待てといふことであらうか。さうすると、八郎自身自分の近い死を予感してゐたことになる。維新回天の事業などは死を覚悟しなければ出来ぬことではあるが、それにしても昔の人は学問修行はもとより、人生そのものの鍛へが違ふやうに思ふ。
  また、八郎は郷里の母へ手紙を送り、蓮女は自分の妻であり、自分の妻として相応しい葬儀を執り行ふやう懇ろに頼んでゐる。
  蓮女は鶴岡より四里ほど離れた朝日村熊出部落の医師の娘として生れたが、家が貧しく十歳の時に養女に出され、十七歳で遊郭に売られた。心の気高い女性であつた。その時清河八郎と知り会ふのである。本名は高代と言つたが、「泥水にも染まらず香り高く咲いて清らか」といふことで八郎は「お蓮」と名づけた。
  八郎は自叙録の中に記してゐる。
  「吾れ野妾を遊里に挙ぐ。郷里頗る之を議する者あり。余が意は其の色に耽るに非ず、其の賢貞を挙ぐるなり。亦何ぞ其の由つて出づる所を究めんや。遂に蓮を以て名づく。蓋し意あるなり」
  蓮女の人柄も分かるが八郎の真面目で誠実な心情も理解出来る。
  八郎が亡くなると盟友の山岡鉄舟が墓を建てたが、お蓮の墓も並べて建て比翼塚とした。二人の墓は東京小石川の伝通院に在る。

◇鶴岡・致道館並びに致道博物館
  予定より早く午後2時半頃鶴岡市内に入る。前倒しに計画を消化して置いた方がよいと鶴岡市内に在る旧庄内藩藩校「致道館」と「致道博物館」を見ることとした。

  旧庄内藩校 致道館前にて

  庄内藩は徳川家康の四天王の一人酒井忠勝を藩祖とし、その子孫は現在も続いてゐる。その本拠地はこの鶴岡であつた。本来なら山形県の県庁所在地は鶴岡であつて然かるべきだが、戊辰戦争で官軍と戦つたために、県庁を山形市に置かれてしまつたと言ふ。
 豊な穀倉地帯である庄内平野を有して、如何にも裕福な町といふ感じがする。戦災に遭つてゐる訳でもないのに道路の道幅が広く、更に歩道がたつぷりと取つてある。町の中を車を走らせてゐて豊な感じのするのはその道幅のせいか。気品と秩序が感じられた。
 「致道館」はボランティアの人がガイドをしてゐた。藩士の健全な育成と藩政振興のために、当時の為政者が真剣に教育に取組んでゐた様子が分かる。そんな藩校であつた。

 致道博物館内 旧西田川郡役所(重文)前

「致道博物館」は明治初期の群役所、警察署、或いはこの地方に伝はる多層民家など重要文化財の指定を受けた建造物が移築されてをり、庄内藩の歴史や戊辰戦争の記録などが展示されてゐる。元藩主の屋敷跡であり、国の名勝に指定された立派な庭園が残されてゐた。
  庄内藩は藩政が裕福であつたためか、兵器の近代化も進み、戊辰戦争では官軍に勝利した数少ない藩である。結局は官軍に降伏するが、官軍の大将が西郷隆盛であり、寛大な処置を受ける。庄内藩士は西郷隆盛の度量の大きさに感激する。明治10年、西南戦争が起こるや鹿児島に馳せ参じて、西郷隆盛の下で戦死をした庄内藩士が何人もゐたと言ふ。

 酒井氏庭園・国指定の名勝        永友亨氏撮影

 部屋の一隅に二名の武士を頌へた写真と言葉が掲げられてあつた。伴兼之、榊原政治の兄弟で、二人は西郷の徳を慕つて明治8年鹿児島の私学校に入学する。やがて戦争となり、二人は郷里へ帰るやうに勧められるが、従軍を志願し、伴は植木で戦死、榊原も二ヵ月後延岡病院で戦病死する。二人の墓は鹿児島の浄光明寺に並んで建てられてあるとか。19歳と17歳の少年であつた。
 現代の若者たちはこの二人の少年を何のやうに評価するであらうか。言へることは、この二人の少年は自分の命よりも尊いものが世の中にはあることを知つてゐたこと、是である。そして、それを知るのと知らないとの差は、天と地の開きがあると言ふことだ。

◇鶴岡地域支部の校友との一夕
  湯野濱温泉の「しらはま屋」に投宿する。夕陽の美しさで有名な海岸の直ぐ近くである。
 6時頃、三田勉氏の友人佐藤弘明氏が来訪される。佐藤氏(昭43商)は三田氏の一年後輩の極く親しい友人とのこと、同じ商学研究室に属してゐたとか。三田氏が予め連絡をして置いたものである。やがて松崎明夫氏(昭52法)、阿部智氏(昭54農)も見える。3人は明治大学校友会鶴岡地域支部の会員で、阿部氏は幹事長を勤めてゐられるとか。会食懇談をする。佐藤氏からお土産に地元の銘酒、大吟醸「栄光富士」と同じく「夢一輪」を、また鶴岡地域支部からはビールを一ケース頂戴する。歓談、大いに弾む。

 鶴岡地域支部の皆さんと交歓 前列左から2人目 阿部智氏氏 佐藤弘明氏 松崎明夫氏

 佐藤氏は鶴岡の旧家の出身であり、荘内銀行に長くお勤めであつた。鶴岡のお話を聞く。
 最上川は山形県の中だけを流れる大河であるが、上流と下流では人の気質がまるで違ふと言ふ。米澤と鶴岡では言葉まで違ひ、意味が通じないとか。成程、関ケ原の戦争に敗れた西軍方に味方し、越後から移封されて来た上杉を城主とする米澤と、徳川家譜代酒井家の鶴岡では、対抗意識も激しいものがあらうと察せられる。その中間の山形や寒河江は両者の鬩ぎ合ひの狭間で、又別の苦しみがあつたことであらう。県庁所在地を山形市に取られてしまつた云々の話しは佐藤氏から聞いたことである。
 隣りの酒田市とも鶴岡はまた違ふと言ふ。成程、成程、庄内藩の城下町である鶴岡は、政治的には出羽の国の中心都市であつた筈だ。商業と物流で栄へた酒田とは、これ又異質の発展経路があり、互ひに意識する処は別なもののあることは分かる。ましてや、酒田で栄えた豪商本間家は
   
    本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に
   
  と唄にまで唄はれてゐる。城下町の鶴岡に意識するなと言つても無理であらう。このやうな話しはその土地の人から聞く以外には知ることが出来ない。

 湯野濱海岸の夕陽           永友亨氏撮影

  昼間、清河八郎記念館を見学した話しをし、また、鶴岡出身の偉人石原莞爾や高山樗牛の名前も話題にのぼつた。石原莞爾の実家は佐藤氏の生家の近所にあり、子供の時からその名前は聞かされてゐたと言ふ。酒田市の西山地区に墓所があり、是非お参りをして行つた方がよいと奨められる。
  歓談は尽きぬが、時計の針は9時を回つてをり、散会することとなつた。菅沼先輩が突然立上がり「校歌を歌はう」と言はれる。菅沼氏のリードで『白雲なびく』を歌つた。歌の後でエールまで送つたのには驚いた。愉快な湯野濱の一夜であつた。
    

2.第二日目 青森県岩崎海岸・十二湖へ
  朝6時頃になると、そろそろ起き出す。年寄りのせいか皆んな朝が早い。昨夜はお酒が入つて大いにメートルの上がつた三田氏も、朝になるとしつかりとしてゐられる。
  実は、計画の段階で秘そかに懸念してゐたことがある。それは行程の関係から8時には宿を出発することであつた。逆算すると、7時に朝食、6時半には起床である。そんなに早く起こすことが出来るかどうか心配であつた。がこれも杞憂に終わつた。旅行中起床当番で苦労した経験は誰も持たなかつた。毎日、定時より10〜15分前の7時45分頃には宿を出発出来た。ドライバーは篠崎氏に替はる。

◇鶴岡市内・鶴岡城址公園

  城址公園  高山樗牛銅像前にて
     
  城址公園内にて
  梅雨明け宣言は未だなのに真夏を思はせる強い日差しと青空、早朝の鶴岡の城址公園を散策する。松や杉の老木の中に芝生が刈込ま
れ綺麗に整備された公園だ。木々の翠りが濃く瑞々しい。庄内神社に参拝し、高山樗牛の銅像を探す。「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」傍らにニーチェ張りの言葉を刻んだ碑が建つてゐた。確か、静岡県の久能山にも同じやうな碑があつたかと思ふ。
  朝の散歩をする人が少し見られる。鶴岡市所縁の人物が集められてゐる「大宝館」を見たかつたが、開館は10時からと聞き、まだ時間があるため諦めて鶴岡市を後にする。

◇酒田市・本間美術館
  酒田市に移動する。最上川の河口に開けた港町として発展した酒田には豪商が軒を連ね、見るべき史跡が大変多い。然し、時間が無く先を急ぐ旅ではゆつくりしてゐる訳にはいかない。

  本間邸  鶴舞園にて

  日本一の大地主本間家の本間美術館を見学する。別荘である清遠閣とそのお庭の鶴舞園は見事なものであつた。贅を凝らした造園と天皇陛下までお泊めする建物でありながら、うわべは努めて質素に見せやうとしてゐる処が奥床しい。説明をする年輩の女性の方の話が又上手で、さりげなく建物や庭園の価値あることを説明していく。押付けがましい処がなく、分かり易い上品な話し方であつた。
  美術館では特別重要な古文書の特別展を開催してゐたが、知識の無い我々には余り興味も起こらない。むしろ、上杉謙信や武田信玄、豊臣秀吉等歴史上有名人物の真筆が展示されてゐた。本間家の当主の中には好事家がゐたのであらうか。然し、そのコレクションがあつたればこそ散逸もせずに、今かうして拝見出来るのであるから、有り難いことである。

◇山居倉庫

 山居倉庫               永友亨氏撮影

  酒田港の岸壁にある山居倉庫を見る。これは永友氏の是非カメラに納めたいとの要望による。土蔵造りの12棟の切妻の屋根の並んだ様は、確かに写真家にとつては好アングルをそそるものであらう。往時の隆盛を偲ばせる山居倉庫は、現在でも現役の農業倉庫として使用されてゐると言ふ。
  此処で、石原莞爾の

 山居倉庫前  菅沼良策氏

墓所の在る西山地区の場所を尋ねてみた。驚いたことに、その場所が分からないと言ふ。地図にも載つてゐない。地名が変更されてゐるのである。説明してくれるガイド嬢は親切で、一生懸命調べたり、問ひ合はせてくれるが一向に埒があかない。仕方なく「観光協会に行つて聞くから、観光協会を教へて下さい」と言へば、此処が観光協会だと言ふ。これには参つた。
 その内に、西山地区は今のナントカ村だといふことが分かつた。その村役場に問ひ合はせる。ところが、これが又さつぱり分からない。勿論、地名だけでなく石原莞爾の墓所だとはつきり言つたが、大体、石原莞爾の名前を知つてる人がゐない。市立図書館を教へるから其処で調べたら如何ですかなどと言ふ者が出て来た。

 山居橋                 三田勉撮影

 やれやれ、山形県出身の不世出の大偉人も、郷里で知られざること斯くの如しか。これは教育が悪い。段々腹が立つてきた。
 と美人のガイド嬢が私を一人の年輩の男性の前に連れて行き、「この方はボランティアですが専門のガイドをなさつてゐる方です。今調べてくれてゐますので、もう少々お待ち下さい」と言ふ。
 その男性は携帯電話で盛んに場所を聞いてゐたが、やがて「分かりましたよ」と笑顔で言つた。丁寧に教へてくれる。国道7号線を北上し幾つ目かの信号を過ぎたら橋の手前を左に入ればよい。ただ、もつと正確に知りたければ、手前に道の駅「鳥海」があるから、其処で確認すればよいでせうとのことである。
 丁重にお礼の言葉を述べる。念のため、「貴方は其処へ行つたことがありますか?」と聞けば、「いいえ、ありません」と素つ気無い返事だつた。

◇石原莞爾之墓所
  墓所は容易に分かつた。国道7号線から左折して100米ぐらゐの処にあつたが、その左折する道は気付かずに通り過ぎてしまふほど狭いものだ。少し手前に「石原将軍の墓」といふ小さな看板があり、もしやと思ひ、戻つてみたら正解であつた。

  石原莞爾の墓前にて  墓碑には南無妙法蓮華経の文字のみ

  墓は小高い丘の上の二百坪ほどの松林の中にあり、海が近いせいか涼風が通つてゐた。周りの草は綺麗に刈込まれ、整理されてゐる。
 直径10米、高さ2米ほどの土饅頭が盛られた円墳がお墓らしいが、中央に建てられた小松石の石柱には「南無妙法蓮華経」とだけ彫られ、石原莞爾の文字は何処にもない。簡素なものであつた。
  「この花はまだ供へられたばかりだよ」
  菅沼氏が驚いて注意を促した。墓前の花立には薄紅色の小さな蘭の花が瑞々しく捧げられてあつた。
  お墓から少し離れた一隅にプレハブの小さな無人の事務所がある。中に入ると、参拝者の記名帳や石原莞爾関連の書物が売られてをり、代金は用意された箱の中に入れるやうになつてゐる。私も千円を入れて一冊求めた。記名帳を見てゐた菅沼氏が
  「随分遠くの方から来てゐるのだな」
  と言ふ。名古屋や東京、九州の方の地名が多く書かれてゐる。地元では忘れられかけてゐても、石原莞爾を知つてわざわざ遠くから詣でる人もゐるのである。日本人もまだ捨てたものではない。

 石原莞爾の記念碑

  奥津城の傍らには赤い御影石の高さ2米ほどの碑が建つてゐる。銅版で出来た石原莞爾の肖像のレリーフが嵌め込まれ、下には横書きで「永久平和」とあり、更に、縦に「都市解体 農工一体 簡素生活」と三行の文字が石原莞爾の書体で刻まれてゐた。

 関東軍参謀の時、満州建国を指導し、熱心な日蓮宗信者であつた石原莞爾については既に多くのことが言はれてゐる。高潔な人格と智謀泉の湧くが如き天才には誰もが異存はないが、私は終戦後、極東軍事裁判で証人として応対した石原将軍の姿勢が好きだ。
  宿痾が悪化して絶対安静中の石原莞爾を証人尋問するために、極東軍事裁判は昭和22年5月2日酒田市商工会議所に臨時法廷を開き、判事、検事、弁護士等65名もの人数が8輌連結の特別列車を仕立ててやつて来たのである。

 晩年 療養中の石原莞爾

  西山地区の農場から青年の挽くリアカーに乗つた石原莞爾は、着流しに戦闘帽といふ姿で法廷に立つが、臆することなく、言ふべきことは堂々と主張した。
 「自分こそ満州事変の中心人物であり、錦州爆撃も満州建国の立案も全部自分の責任だ。何故その自分を戦犯として連行しないのか」
  又、東条英機との確執から東条に忌避され、予備役に編入された経緯のある石原の口からその名前の出てくることを期待されてか、アメリカの検事から誰が第一級の戦犯かと問はれる。石原莞爾は言下に
 「それはアメリカのトルーマン大統領」
 と答へる。トルーマンが大統領就任の時に撒いたビラに『若し、日本国民が軍人と共に戦争に協力するなら、老人、子供、婦女子を問はず全部爆殺する……』と書いてある点を示し、これは非戦闘員は爆撃しないといふ国際法違反ではないか。広島、長崎に原爆を投下して無辜の民を殺したトルーマンこそ第一級中の第一級の戦犯ではないかと。
 石原莞爾と判検事の応対辞令を見ると誠に痛快であり、あの敗戦直後の総て撃ち拉がれてゐた日本の中に、唯一人でもこのやうな人物のゐたことは驚異である。山形まで乗り込んで来た判検事たちはしまひにはみな石原に敬服し、「ジェネラル石原」を連発し、法廷は裁く人と裁かれる人が主客転倒して和気藹々の雰囲気になつたと言ふ。特に、裁判長であるニュージーランド代表のノースクロフト判事は石原に深く敬意を払つたと伝へられてゐる。これに対して石原莞爾は、自分に若しドイツ語と同じ位に英語を話すことが出来たら(石原は3年間のドイツ留学の経験がある)、もつと当意即妙の応答をして検事や判事を驚かすことが出来たらうにと残念がつてゐた。酒田軍事法廷が終はつた夜、UP記者カリシャーとAP記者ホワイトは通訳を伴ひ、石原莞爾を訪ねて来る。種々インタビューの後、トルーマンをどう思ふかと聞くと
 「トルーマンは政治家の落第生だ」
 「どうしてか」
 「政治家である以上洞察力がなくてはいけない。戦争の最後の土壇場になつて、させなくても良いのにソ連に参戦させて鳶に油揚げを攫われる図などは、世界史的な大笑話となつて恐らく後世に残ることだらう。こんな目先の利かない政治家は見たことがない。政略方面では全くの落第生だ」
  とユーモアたつぷりに、然し、烈しく言へば、記者たちも「ゼネラルの言ふ通り」と賛同したとのことである。この事は歴史的経過の中でも正鵠を射てゐる。訪ねて来た記者たちも石原の法廷での態度に感激した人たちであつた。
 石原莞爾の伝記は何冊も出てゐる。私の知る限りでも10冊以上を数へる。然し、みな充分なものとは言へない。人物が大きすぎて描ききれないのである。戦争に関するものはみな臭い物には蓋式に歪められて伝へる近代史の中にあつて、石原莞爾を正しく評価し伝へる者は少なく、石原を知る者は益々少なくなるであらう。
 墓前に佇むと吹浦海岸から吹き寄せる風だけが颯々と松の梢を鳴らしてゐた。

◇日本海沿岸を北上
  本日は鶴岡、酒田を観たあと、秋田県の日本海沿岸を一気に北上し、青森県の岩崎海岸に泊る予定だ。

 大師庵の名物「小板そば」

 象潟に入り、国道沿ひの小さな蕎麦屋で昼食とする。「大師庵」といふ屋号の店で「伝承1200年を誇るまぼろしの大須郷そば」と宣伝の文句はものものしい。名物の小板そばを頼んでみる。値段も一人前800円と安くないが、宣伝ほどには旨くはなかつた。
  鳥海山を右手に、日本海の海岸線を左手に見ながら国道101号線を北上する。山側の景色が変わると三田氏から説明があつた。
 「この辺はもうぶなの林ですよ。杉や檜は緯度が高くなると育たないのです。そろそろ白神山地と言つて世界遺産に登録された地域でせう」

 白神山地               永友亨氏撮影

  白神山地は日本で最初にユネスコの世界遺産に登録されたぶなの原生林である。世界遺産には自然遺産、文化遺産、複合遺産(日本には無い)の三つがあり、日本の自然遺産は白神山地と屋久島と知床の三ヶ所、文化遺産は法隆寺地域の仏教建造物など十一ケ所がある。
  白神山地の特徴は、原始のままのぶなの木の自然林が世界最大級の規模で分布してゐることとか。多種多様な植物の生育とともに、ツキノワグマ、ニホンザル、クマゲラ、イヌワシなど多くの動物が生息し、白神山地全体が森林博物館となつて高く評価されてゐると言ふ。

◇十二湖

 岩崎海岸の夕焼け          篠崎行伸氏撮影

  今晩の宿は岩崎海岸、此処も夕陽の美しいことで有名な海岸だ。チェックインには少し早いので十二湖を廻つてみた。白神山地の麓である。ぶなの森の中を走り湖の幾つかを見る。舗装こそされてゐるが道幅は狭く、深く落ち込んだ谷川を見ながら走るのは少々怖い。ドライバー篠崎氏は余裕綽々、ぶな林の中の屈曲した道路を走り抜けて行く。視界の開けた処で車を停め、白神山塊をバツクに写真を撮る。全山ぶなの原生林である。ただ、背景がぶなの木かどうかは説明を聞かなければ分からない。写真としては何んの面白味の無いものかも知れない。十二湖を廻つて海岸沿いの道路に出たら、其処が今宵の宿舎静観荘であつた。4時30分チェックイン。

◇岩崎海岸・静観荘
  静観荘は不思議な旅館だ。国道101号線とJR五能線に挟まれて建つてゐる。建物のすぐ傍を鉄道の線路が通つてゐるのである。
 我々の泊る部屋の直ぐ前を電車が走つて行くのはいい。浴室も線路の眞近かにあるのだ。然かも、幅2間半、床から天井までいつぱいに硝子が嵌め込まれてゐて、浴場の中は電車から丸見えである。見せたくもないし、見られたくもない姿を見られるかも知れないといふのは不思議な気分だ。と思つてゐると、早速、電車が通り過ぎた。よく見ると、二輌連結の電車には乗客が一人も居なかつた。勿論、運転士はゐたが、真剣に前を向いて運転してをり、風呂場の中を覗いてゐる様子はなかつた。

 浴後食前先ず一杯

 日本海の傍に泊るせいか、夕食の料理が仲々美味しい。専ら海の幸であるが、新鮮な烏賊素麺が特に旨かつた。
  私以外の五人はみな酒豪である。宿に着くと早速酒盛りが始まる。「これ無くて何んの人生」と言つた顔で呑んでゐる。
  お酒が入れば話題も増へ、笑ひ声も一段と高くなる。酔つぱらひの気分は伝染するから、下戸の私までが愉快になる。杜甫ならば「飲中五仙歌」でも作るのだらうが、私にはそんな真似は出来ない。皆さんの話題に合はせて一緒に笑ふだけである。

 幸せ 篠崎行伸氏(左)と田村守孝氏

  田村氏は熱烈なビール党である。毎年、ドイツのビール祭りに出掛けるほどのファンである。
 「ビールの銘柄は何がお好きですか」と尋ねると
 「それはアサヒのスーパードライです。これ以上に美味しいビールはありません。キリンも一番搾りを出して大分追い着いて来たが、スーパードライにはまだまだ及びません」
 明言する。アサヒビールの社員に聞かせたら泣いて喜びさうな話しだ。私に酒の味は分からぬが、生ビールならサッポロが旨いのではないかと思つてゐた。どうもさうではないらしい。
 「サントリー、あれは駄目ですね。サントリーは不味い」
 これまた、サントリーの社員に聞かせたら暗殺されさうなことを田村氏は断言する。
 田村氏以外の三人はその場に合はせて、と言ふより料理に合はせてお酒を選んでいるやうだが、見てゐると、日本酒がお好きらしい。日本酒か、呑む量によつては焼酎を選んでゐる。これは二日酔ひの予防なのだとか。
 私はお酒を嗜まない。偶々その気にならなかつただけのことであるが。然し、お酒が入ると話題が弾み、楽しさが増す。若しかしたら、料理の味も少し美味しくなるのではなからうか。その点だけは、呑める人を羨ましく思ふ。
   

3.第三日目 金木から大湊、下風呂温泉へ
  今日も快晴の好天気。ドライバーは田村氏。いつの間にか、田村氏と篠崎氏のお二人が一日交替で運転するやうになつてしまつた。お二人とも名ドライバーである。
  7時45分、定刻前に宿を出発する。今日は青森県を西から東へ、日本海側の岩崎海岸から太平洋側の下北半島下風呂温泉まで横断する予定だ。先ずは、岩崎から深浦、鯵ヶ沢へと海岸線を北上する。

 深浦海岸       篠崎行伸氏撮影  お休み  いか釣り舟も灯台も
 深浦の海岸にて  いか釣り舟       三田勉氏撮影

◇ふかうらかそせいか焼き村と千畳敷海岸
  海岸線は青森県に入ると急にそれまでの砂浜からごつごつと切り立つた岩場となつてくる。地質が変はるのであらうか。趣のある岩場の海岸を眺めながら快適なドライブが続く。
  道の駅「ふかうらかそせいか焼き村」で休憩する。ひら仮名で書かれると何んのことか分からぬが、深浦町大字風合瀬(かそせ)といふ処にある道の駅だ。此処は烏賊漁が盛んのやうで、いか焼きを名物にしてゐるのである。8時と時間が早くお店は開いたばかりだが、もう炭火で烏賊を焼きはじめ、食欲をそそるいい匂ひをさせてゐる。
 永友氏等写真愛好家連は早速に好風景を選んでカメラを構へる。
 広い駐車場には既に数十台の自動車が停まつてゐるが、中には、ワンボックスカーに泊り込んで旅行を続ける年輩のご夫婦もゐる。
 「洗面をしてゐるから、何かと思つたが、自動車の中で寝てるんですね」
 菅沼氏が自分の自動車の方へ歩いて行く男性の後姿を目で追ひながら言ふ。相当の年配者に見られたが、夫婦で自動車に泊りながら旅行とは仲々の気力である。

  千畳敷海岸にて

 国道101号線を更に北上すると千畳敷海岸に出た。平な岩場が広々と続く海岸だ。それだけでなく、周りの岩にはそれぞれ名前が付けてある。鷲岩とかライオン岩とか。長年月の雨や風や波による侵食と風化の作用で出来たものであらう。付けられた名前を見ると、それらしく見えるから不思議である。これも自然の妙だ。

◇金木・斜陽館と蜆ラーメン
  鯵ヶ沢から五所川原を抜けて金木に入る。太宰治の生家「斜陽館」を尋ねる。

  太宰治記念館  斜陽館前にて

  太宰治の生家は金木町の大変な素封家であり、一族からは貴族院議員や県知事を出してゐる。後に没落して生家の建物も人手に渡つたが、今は金木町のものとなつて記念館として解放されてゐる。
  中に入ると、町の若い吏員が建物について詳細な説明をする。明治40年建築の、現在は国の重要文化財に指定されてゐるこの建物が、どんなに素晴らしいものであるかを丁寧に説明する。当時の財閥が金に糸目をつけず、贅に飽かして作つた建物がどんなに素晴らしいかはよく分かつたが、太宰治の文学に触れることは何もなかつた。家や家族、風土や土地柄から見た太宰文学こそ、此処を訪れる人々の一番の関心事であると思ふのだが。建物を見に来ただけじやないのにと言ふ不満が残つた。
  三田氏も記念館を熱心に観て廻つてゐたが、
  「夏目漱石から芥川龍之介、太宰治と続く日本の近代文学も、それ以後、太宰を超へる者が出てゐないではないか」
  と言はれる。文学に造詣の深い三田氏は、或いは私と同じ思ひを持つたのではなからうか。

 今回の旅行に来るとき、青森に勤務したことのある人から十三湖の蜆ラーメンが美味しいといふ話を聞いた。是非味はつてみたいと思つてゐたが、十三湖とは五所川原の先、津軽半島の西海岸の方である。昨夜泊つた十二湖とは場所が違ふ。
  「そんなに旨いものなら、十三湖まで行かなくても何処かにありますよ」
  永友氏が言ふ。斜陽館のガイドさんに聞いたら、金木駅の二階に蜆ラーメンを供するお店があるとのこと。早速行つてみた。
  津軽鉄道金木駅の二階に「ぽっぽ家」といふレストランがあつた。ご主人の黒滝さんは愛想のいい人で、「味は十三湖より当店の方が上です」と自信満々に言ふ。塩味で若布と蜆のたつぷり入つたラーメンだつた。私には醤油味ならもつと美味しいのにと思はれたが、気にしてゐた評判の名物を賞味出来て大満足である。

◇大湊・斗南藩開拓地跡
  金木から3時間走り続けて大湊へ行く。青森自動車道に入り青森市内を横に見て国道4号線に出ると40キロほどで野辺地に着く。JR東北本線が陸奥湾にぶつかり左青森、右大湊へと分かれる処である。野辺地から陸奥湾の海岸線、国道279号線を60キロ走ると大湊(むつ市)だ。
  海上自衛隊の大湊地方隊の在る処で、日本の北方の海域、北海道周辺海域総ての防衛を担当してゐる。海上自衛官の人からこんな話しを聞いたことがある。
  海上自衛隊には「大湊の三泣き」といふ言葉があるさうな。人事異動の発令が出て大湊へ転勤となる。野辺地を過ぎて大湊線に乗ると車窓の景色は一変する。人家も少なく、荒涼とした風景だ。こんな僻地で勤務することになつたのかと先ず「一泣き」する。ところが実際に大湊で働くと、土地の人の人情の濃やかさ、心の温かさに触れて、感動して「二泣き」目をする。次の異動があり、大湊を離任することになると、離れたくないと「三泣き」目をすることになる。それ程に、気候や自然環境は厳しいが、大湊の人々の心は優しく、思ひやりのあるさうな。
  ところが最近では大湊の「四泣き」と言ふやうになつたとのこと。「四泣き」目は東京に帰つて来てから、大湊を思ひ出して泣くのだと言ふ。此処まで言はれたら、大湊の人も本懐であらう。

  斗南藩の説明を記す木碑

 午後3時頃、大湊に到着。むつ市郊外に「斗南藩開拓地遺跡」を尋ねる。戊辰戦争に敗れた会津藩が明治新政府によりこの地に斗南藩として再興を認められる。移住して来た会津の人々は何んとか新天地に自分たちの国づくりをと努力するが、過酷な自然環境の中、風雪や野火にによつて家屋は倒壊し、離散する者も出て、明治4年、廃藩置県が行はれるや、斗南藩建設の夢は僅か一年で潰へるのである。

  斗南藩開拓地の遺跡  秩父宮両殿下御成婚記念碑の前にて

  松の木立の中には小さな東屋が一つ建つて、説明を記した木碑が三つ立つ。往時を示すものは廻らした土塁の一部が残されてゐるのみである。土塁の隅には可憐なはまなすの花が咲いてゐた。
 中ほどに5米ほどの高さの大きな石碑が建ち「秩父宮両殿下御成婚記念碑」と刻まれてゐる。昭和11年10月、この地に御来遊された秩父宮雍仁親王殿下と勢津子妃殿下(斗南藩主松平容大公令姪)の御成婚を記念して、地元の斗南会津会の人たちがこれを建てると木碑に書いてあつた。
  大湊へ来る人はあつても、この斗南ケ丘を訪れる人はすくないのか。木碑は傷んで一部壊れ、文字の跡も薄れて消えかかつてゐた。

 大湊から下北半島の太平洋側、風間浦村の下風呂温泉までは30キロほどである。井上靖が「海峡」といふ小説を書くために逗留した処とか。今宵の宿は其処の「かさい」である。
    

4.第四日目 下北半島から八戸へ
◇下風呂温泉の朝
  下風呂温泉の日の出は4時20分である。永友、篠崎、三田、田村の諸氏は4時頃カメラを持つて出て行つた。日本海では夕陽を撮つてゐたが、太平洋では日の出だ。夜は真つ暗だから撮るものは無いだらうと思へば左に非ず、烏賊漁の漁火を撮ると言ふ。やれやれ、カメラマンはご苦労様である。

 風間浦村いか釣り漁の夜景       永友亨氏撮影

  宿は海岸の防波堤の際に建つてゐる。一晩中波の寄せる音が喧しかつた。部屋の窓は海に向かつて開けてゐたが、ここから見る烏賊漁の漁火は壮観であつた。左手、大間ケ崎の方に見えた漁船の灯かりが夜半から明け方にかけて段々と正面の方向に移つて来るのである。それぞれの漁船は発電機を動かし何十といふ集魚灯を発光させる。船そのものが光の塊りである。その光の塊りのやうな船が何十隻も目の前の海に広がる。圧倒されるやうな偉観であつた。
  然し、夜の烏賊漁は専ら大間ケ崎の漁師であり地元風間浦の漁師は昼間の烏賊漁をすると言ふ。お金がないから夜は出来ないのだとか。設備に資本がかかるのであらう。宿のご主人の葛西氏も漁師を生業としてゐるとか。朝4時前に船を仕立てゝ出て行く。大間の漁師の帰る頃、地元の漁師は漁を始めるのである。
  話しの様子で、この地域では大間が裕福な土地柄であるやうに見受けられる。大間には今原子力発電所の建設が始まつてをり、多くの工事関係者も来てゐると言ふ。如何にも寒村と言つたこの地域では及ぼす経済効果の影響は大きく、それは集魚灯の有無よりももつと大きな格差となるのかも知れない。

 カメラマンが撮影に出掛けてゐる間、菅沼氏と私は知人へ旅先からの葉書を書いた。私は娘たちや友人、いつも便りをしてゐる幼かつた頃の先生へ。清硯社(書道愛好会)の中村すみ恵先生にも書いた。

     中村すみ恵先生へ
 老蒙草舎のお仲間、菅沼良策氏、田村守孝氏と、それに永友亨氏、篠崎行伸氏、三田勉氏の六名で東北地方を旅行してゐます。
  最上川を舟で下り、鶴岡、酒田見て、今日は金木の太宰治記念館、大湊の斗南藩開拓遺跡を廻つて来ました。
  明日は下北半島を一周して八戸まで行き、更に陸中海岸を観る予定です。
  日本海の夕陽の美しさと太平洋の日の出の景色を堪能してゐます。

        下風呂温泉にて  金子勇二
 

 葉書を書き終へた頃、カメラマン達は帰つて来た。
 朝食を済ませ、7時45分には宿を出発する。

◇大間ケ崎と仏ケ浦

 大間ケ崎  「ここ本州最北端の地」の石碑の前

  下北半島はマサカリの形をしてゐると言はれるが、その鉞の刃の背中の部分、太平洋に面した側、国道279号線を北上する。その刃の先端が大間ケ崎である。数年前、NHKの朝のテレビ小説「私の青空」の舞台で有名になつた処だ。マグロの一本釣りでも知られてゐる。北海道の函館までは海峡をはさんで17.5キロ、晴れれば市街まで見えると言ふ。泳いで渡れさうな距離であるが、津軽海峡は海流が急で、とても泳げるやうな処ではない。
  「ここ本州最北端の地」と刻まれた石碑が建つ。天気は好かつたが烈しい風が吹いてゐた。

 どちらがジャンボ           篠崎行伸氏撮影
 大間ケ崎 まぐろ一本釣りの像と田村守孝氏

 大間ケ崎から津軽海峡を右に見て国道338号線を南下、鉞の刃の中央あたりに仏ケ浦がある。下北半島で最も雄大な景勝地の一つだ。国道沿ひの駐車場に自動車を置いて、約100米ぐらゐの落差の断崖を降りる。観光客用の道が造つてあり歩くのは容易だが、高低差があつて相当にしんどい。下りは10分、上りは20分と言はれたが、本当に大変だつた。

 仏ケ浦の景観      永友亨氏撮影

  波打ち際まで降りると其処が仏ケ浦、風雨と荒波に侵食された灰白色の凝灰岩の続く海岸だ。その岩の大きさと侵食された岩の形態の雄大さは、箱庭的な日本の景色からすると桁外れの規模である。しばらく感嘆しながら景観を楽しむ。
  岩場ばかりでなく岩と岩の間に小さな白砂の浜辺もある。写真家連中は絶好のアングルを探して撮影に余念がない。
  岩づたひに磯を歩き岩壁を眺めるのもよいが、観光船に乗つて沖合ひから観る景色も素晴らしいやうだ。此処へ来る途中の佐井といふ町からは観光船が出てゐる。仏ケ浦の端には船着場が設けられてをり、団体の観光客が乗り降りしてゐた。

  仏ケ浦に降りて
   
   
   

    神のわざ鬼の手づくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり

 土佐の人大町桂月の歌碑が建つてゐた。さう言へば、この浜辺はどことなく高知の桂浜に似てゐるやうな気がしないでもない。
  立地条件の故か交通アクセスの悪さによるものか、景観の素晴らしさの割りには知られてゐない仏ケ浦である。

◇恐山菩提寺
  地図の上で調べると、恐山に行くには国道338号線を佐井まで戻り、其処からあすなろラインに入つて奥薬研温泉を通つて行くのが近いやうに思へるが、茶店や地元の人に尋ねると、鉞の刃を一回りして大湊へ出て、其処から行く方が早いと言ふ。どうもあすなろラインと言ふ道が余り良くないらしい。国道338号線をその侭南下、陸奥湾の北側沿ひを走つてむつ市内に入り、恐山菩提寺へと向かつた。

  恐山菩提寺山門前  三途の川を渡つて只今到着
     
 恐山菩提寺の坊           篠崎行伸氏撮影
 ガイトブックよ依れば、恐山は1200年前、慈覚大師円仁によつて開かれ、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊山の一つであるとか。
  宇曾利湖の周りを八つの峰が取り囲み、その形があたかも花開く八葉の蓮華の臺のやうに考へられてゐる。火山ガスの噴出する岩肌一帯は地獄に、湖をとりまく白砂の濱は極楽浄土と例へられて、菩提寺はその湖畔に建つ。「人が死ねばお山に行く」と言ふ素朴な信仰が祈りとなつて伝へられて来たのである。
 恐山の説明書に見入る菅沼良策先輩
 昔、幼い頃、ニュース映画などで観た恐山の景色は、雪雲が低く垂れ込め、地吹雪が吹き荒れる陰々滅々とした地獄のやうな暗い風景であつた。実際は、空が広く開け、明るい太陽の下に在る静謐な寺院の佇まいである。
  恐山が死者の霊の集まる山と言はれるのは、戦後のマスコミが「死霊の山」といつたイメージを煽つた為で、元来、下北地方には現世利益を願ふ「地蔵講」の習はしがあり、大漁や五穀豊穣、家内安全、無病息災の御利益を願つたものである。
 賽の河原から地獄谷へ         永友亨氏撮影
 ただ、七月の大祭典、十月の秋詣りには大勢の「イタコ」が出て「口寄せ」(先祖の霊や、死んでしまつた肉親や知人の意志を伝へること)をするので、それが「死霊の山」といつた誤つたイメージを伝へる原因となつたのであらう。「イタコ」とは苦しい修行を経て、亡き人の言葉を伝へたり、予言や占ひを行ふ特別な力を身につけた人を指し、現在十数名ゐるが、後継者はなく年々減少してゐると言ふ。

◇八戸・蕪島へ
  恐山からむつ市内に戻り、太平洋沿岸の国道338号線を一気に八戸まで下る。
 途中右手に小川原湖が見え三沢市に入ると、三田氏が
  「もうじき淋代の海岸ではないか」
 と言はれる。寡聞にして淋代海岸の名前を知らない。三田氏の説明によると俳人山口誓邨に有名な一句がある。

   みちのくの淋代の浜わかめ寄す

 この海岸で詠まれたと言ふ。俳句を志す者なら誰でもが知つてゐる名句ださうな。三田氏は俳句についても造詣が深く一家言をお持ちだ。松原越しに時折り海岸が見えたが、この辺は日本の白砂青松100選にも選ばれた風光明媚な海岸とのことである。

  夕陽に染まる蕪島神社の前にて

 午後4時30分八戸市内に入る。ウミネコの繁殖地で有名な蕪島へ行く。先ずは蕪島神社に参拝する。

 成程、すごいウミネコの数だ。足の踏み場も無いくらゐで、然もそのウミネコが先の赤い鋭い嘴と険しい目をしてこちらを睨んでゐる。少々恐ろしい。恐々と占拠された石段を登り社殿に詣でる。
 白い羽と茶色の羽の鳥がゐる。聞いてみると茶色の羽の鳥はまだ幼鳥なのだとか。それにしても大変な数の鳥だ。
   

  唄に夜明けたかもめの港 ハヨイヤサ  
  船は出て行く南へ北へ 鮫の岬は潮煙り  
  ツルサンカメサン ツルサンカメサン ツルサンカメサン  
  ツルサンカメサン    
           
  煙る波止場に船つく頃は ハヨイヤサ  
  白い翼を夕陽に染めて 島の海猫だれを待つ  
          
  錨おろせば狭霧のなかに ハヨイヤサ  
  紅い灯影がちらちら見える 行こか懐かし港橋  
          
  嶽の日和に稲の花盛り ハヨイヤサ  
  娘おどれやおしまこ踊り 城下二萬石菊の里  
    
 「八戸小唄」は青森県の好きな民謡だが、蕪島のウミネコは唄の文句のやうに艶で優しいものではない。

 市内を抜けて種差海岸に出る。今宵の宿は種差海岸の「石橋」である。偶然なことに、この種差海岸も日本の白砂青松100選に選ばれた一つであつた。
     

5.第五日目 平泉・中尊寺・毛越寺から家路へ
◇種差海岸と吉田初三郎
  朝、目覚めると「海岸がいいですよ」と永友氏が言ふ。撮影を兼ね散策をして来たのだ。30分ぐらゐかかるとのこと。早速、菅沼氏と朝の散歩に出掛ける。

 種差海岸の日の出  篠崎行伸氏撮影

  宿のロビーに種差海岸を宣伝したJRのポスターが貼つてある。その中に司馬遼太郎の『街道を行く』の一節が引用されて
 「どこかの天体から人がきて地球の美しさを教えてやらなければならないはめになったとき、一番にここの種差海岸に案内してやろうと思つたりした。」
 と書いてある。随分と過褒な言葉である。
  然し、海岸はその言葉を裏切らない美しさであつた。自然の芝生は整備されたゴルフ場のやうに美しく、松原とよく調和してをり、岩礁は海に突き出て、穏やかな砂浜と絶妙なバランスを保つてゐる。そのやうな海岸が10キロも続いてゐると聞く。
  静かな朝の海はよく凪いで、微かな波が寄せてゐるだけだが、太平洋に面した海岸である。四季折々、気象状況によつてはまた違つた美しさや酷しさの変化を見せることであらう。

 朝の散歩を楽しむ菅沼良策氏

 朝食時間に遅れないために散歩を切上げた。

 宿の食堂には吉田初三郎の記事の切抜きや資料が貼り出されてゐる。読んでみると、吉田初三郎は独自の工夫で日本の観光鳥瞰図を描き「大正の広重」と呼ばれた画家であつた。私はその名前を知らなかつたが、『初三郎式絵図』と言はれる鳥瞰図は誰もが見たことのあるものだ。
  吉田初三郎は晩年この種差海岸が気に入り、アトリエを造つて移り住んだが、そのアトリエはこの「石橋」の敷地内に建つてゐた。吉田初三郎との所縁の故を以つて、その資料が展示されてゐるのである。その人物は仲々興味深いことが多く、関心をそそられるが此処で触れる余裕がない。名前だけを記憶に留めて置く。

◇予定変更
  当初の旅行計画では、帰路は陸中海岸を通り浄土ケ浜を見物する予定であつた。然し、それだと一般道路の走行も多く、700キロ近くを走つて藤沢まで帰るのが大変ではないか。むしろ陸中海岸はやめにして、八戸から東北自動車道へ入り、平泉で降り、中尊寺を観たらどうかとの意見が出てきた。これなら帰路の殆んどは高速道路ばかりであり、帰りは楽だ。然も、中尊寺をまだ観たことがないと言ふ人が一人と、昔観たけど忘れてしまつたと言ふのが残り全員であつた。衆議一決、浄土ケ浜が中尊寺とわんこそばに変はつた。

◇中尊寺・毛越寺
  7時45分に出発。東北自動車道の八戸ICにはいる。これは直ぐだ。若し浄土ケ浜を見物すると、宮古から盛岡ICまで国道106号線を100キロ以上も走らなければならない。これはドライバーにとつて大変な負担である。計画変更はベターであつた。10時15分には中尊寺に到着した。

 中尊寺本堂前にて

 中尊寺を見学する。
  余りにも有名な中尊寺となると、表現のしやうがない。勾配のある表参道を登つて行くと、両側の木立の中に堂塔が散在する。かつて藤原氏が栄華を誇つた頃は、さぞかし絢爛豪華であつたらうと想像されるが、今では、これらの建物も「つわものどもが夢の跡」の感が深い。
  金色堂は、流石に何度見ても目を奪はれるばかりである。金、銀、螺鈿、象牙など精緻を極めた工芸美術は、時代的背景を考へても驚嘆に値する。
  13世紀のベネティアの冒険旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、日本のことが「黄金の国ジパング」として紹介されてゐる。その伝聞の根拠になつたのがこの金色堂であり、それが又、元の皇帝フビライの日本征服の野望の原因になつたとか。真偽のほどは知らない。

 金色堂と須弥壇            篠崎行伸氏撮影

 然し、金色堂そのものは、そんな風評の原因となる価値は充分備へてゐると言はれても不思議ではないほど豪華である。
  想像を絶する栄華を極めながら僅か四代で滅び去つた藤原氏、それに義経の悲劇的な生涯も重なり併せて、中尊寺に関する思ひは必要以上に増幅されるのではないかと思ふ。日本人の好む「愛惜の心」だ。さう思ふと、どうしても現在のものと言ふより、過去を伝へるものとしか思へない。

 中尊寺門前の衣関屋といふレストランで昼食とする。話しの種にわんこ蕎麦を注文、味は悪くないが、量の多さに辟易した。

 お椀の数に圧倒される  マンツーマンのお給仕はなかつた

 毛越寺へ廻る。広い空、静かな木立に囲まれた形のよい池。極楽浄土を表現したといふ浄土庭園は優雅で美しい。平安朝の貴族の遊びはこのやうな処で行はれたのであらうか。大きな池をゆつくりと歩いて回つた。

  毛越寺 浄土庭園  大泉ケ池の前
    
◇三人競作
              永友亨氏撮影
              三田勉氏撮影
               篠崎行伸氏撮影
 毛越寺本殿              篠崎行伸氏撮影
     

 12時35分、毛越寺を後にする。これで今回の「みちのくの旅」の予定はすべて終はつた。
  知識を得るだけなら本を読めばよい。その場に身を置くことは経験となつてその人の人生の一部となる。ましてそれが気心の知れた親しい仲間と一緒となると楽しみは倍加し、単に未知の土地を見聞する旅行にとどまらない。愉快な老蒙修学旅行『みちのくの旅』であつた。
                     (平成19年8月19日記す)
     
     

  
  

 
 
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