
女優ボランティアの草分け
木 暮 実 千 代 さ ん
馬 渕 豊
(昭31 文)
片瀬海岸から、その昔の江の島街道、いまでは道幅が狭い通りを歩いて10分ほどの静かな佇まいを見せる住宅街の一角に、鎌倉時代末期に有弁僧正によって開山された宝盛山薬師院密藏寺がある。旧くから藤沢市内に住んでいる諸兄姉には当然知られた名刹である。
そこには、ある時期銀幕で一世を風靡した大女優木暮実千代による手植えの愛染かつら(桂)のあることはあまり知られていない。
私は現役時代(東京12チャンネル、現テレビ東京)木暮実千代さんから話は聞いていたのだが、先日、藤沢に造詣の深い金子勇二支部長に案内され、密藏寺境内に植えられた愛染かつら(桂)を初めて観るに及んだ。
愛染かつらといえば松竹映画「愛染かつら」(一九三七年)を熟年世代の人たちは思い起こすに違いない。医師津村浩三(上原謙)と看護婦石かつ枝(田中絹代)のメロドラマで、テレビのない戦前、銀幕で天下の紅涙を絞ったヒット作品である。その映画の続編で木暮実千代さんが看護婦の一人としてワンカットで出演。彼女にとって映画のデビュー作となったのである。
閑話休題、この稿を進めるに私と木暮実千代さんとの出会いにふれておかねばなるまい。私は昭和四十年代テレビ東京でワイドショー「奥さん、2時です」の担当プロデュース、ディレクターとして、木暮実千代さんと三笑亭夢楽さんを司会に起用しテレビ番組を制作していた。木暮実千代さんのような大女優を司会にするということは大変なことであった。まして当時の12チャンネルは貧乏局でとても高額なギャラを払えなかったのだが、清水の舞台を飛び降りる覚悟で視聴率にかけ出演を依頼した。しかしこれには裏があった。当時フジテレビで木暮さんの宿命のライバル高峰三枝子さんが「3時のあなた」のレギュラー司会で出演していたこともあって、木暮さんにとってはことのほか高峰さんを意識し、常に「馬渕さん、高峰さんの司会はどう?視聴率をあげようね!」と自分を鼓舞するように番組の司会を熱心にしていたことがいま夢のように私の脳裏をかすめる。その関係で、以来、親交を深め、ご主人和田日出吉氏と住む田園調布の邸宅にいつもお邪魔し夜更けまで話し込んでいたものだった。
木暮実千代さんは山口県下関で一九一八年一月に生まれ、女学生時代から文学少女だった。だがある機会、映画会社に写真を送り採用に至らなかったが三位に入ったことがある。これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田国士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、残念ながら日大芸術学部に入学したのである。そして、在学中、江ノ島のカーニバルで「弁天さん」に扮し芝居に出演、その時、 冒頭に記した片瀬の密藏寺に合宿し演技に取り組んでいた。「このカーニバルは、今も江の島と鎌倉の浜辺では海水浴客誘致のために鎬ぎを削っているように、盛大な催し物となっていた」と密藏寺の大西弘全住職は 語っていた。
松竹映画への入社は、この「弁天さん」がきっかけだった。そのような経緯で昭和三十二年(一九五七年)木暮実千代さんはその記念として愛染かつらの若木を植えられて、今では二十メートル以上の大木に成長、淡い緑ハート形の葉を茂らせている。
木暮実千代さんが松竹に入社した当時は映画全盛時代で、高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部にいたが、彼女は一年余りで幹部に昇進、庶民的人気というより大学生などインテリにもてはやされた。戦中はご主人の赴任地新京(現長春)に渡り、満州では李香蘭と「迎春花」に共演、苦難の生活を送って終戦翌年帰国した。一九四九年には「青い山脈」で芸者役、中年年増役で脇役ながら映画ファンの人気を渫った。その後「花の素顔」当時、明治大学文学部教授だった舟橋聖一原作の「雪夫人絵図」などヴァンプ役で持ち味をいかんなく発揮、獅子文六原作「自由学校」大映作品に、高峰三枝子の松竹作品と競演、話題をまいた。「成熟しきった女の豊満な肉体」 は垂すい涎ぜんの的となった記憶をもつ人たちも多くいることと思う。
また、木暮実千代さんは終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児伊藤幸雄さんら二人に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもおたべなさい」といって当時のお金では大枚の百円札を2枚渡し「くつはみがかなくていいのよ。体に気をつけてね」といって励ましたエピソードがある。その少年は後にアメリカに留学して大学を卒業し、一人は高校の教師、一人は医師として開業している。群馬県にあるあの菊田一夫作によるラジオドラマの舞台になった「鐘の鳴る丘少年の家」の設立にも出資するほか、保護司として戦後の窮乏生活を送る人たちにも手をさしのべていた。このほか中国留学生を自宅に寄宿させるなど人の見えないところで奉仕活動をしていた。こうした一連のボランティア活動はどこから来たものなのか。恵まれた環境に育ち、 映画界でも下積みのないのにかかわらずこのヒューマニズムは、生来の性格があいまってのことであろう。かつて高峰三枝子さんの息子が覚醒剤容疑で検挙されたときも、彼女は保護司として息子を立ち直らせている。木暮さんと高峰さんは生まれも同じ年、死去したのも同じ年平成二年 (一九九〇年) 本名、和田つま享年七十二歳。昨年十三回忌を終えこの七月、和田つまこと木暮さんが妹和田敏子さんとともに経営してきた神楽坂のホン書き旅館「和可菜」を舞台にした著書がエッセイスト・クラブ賞を授賞、その授賞式がプレスセンターで行われた。「木暮実千代は晩年、いろいろな病気をした。しかし生来明るい性格で回りの人に気落ちさせなかった」と木暮さんの甥である著者黒川鏡信氏は述べていた。「和可菜」は昨年のウォーキング神楽坂で佐藤英雄先輩の引率、山本京子さんのガイドでしばらくぶりで訪ねた。木暮実千代さんの、ボランティアという言葉もなかった時代の社会貢献は称賛されていいと思う。
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